阪神タイガース リンク集
運営法人は株式会社阪神タイガース。運営母体(親会社)は阪神電気鉄道(阪急阪神ホールディングス傘下)。兵庫県を保護地域とし、同県西宮市にある阪神甲子園球場を本拠地としている。二軍(ウエスタン・リーグ)の本拠地は、同市にある阪神鳴尾浜球場。
実数発表となった2005年以降、公式戦での年間観客動員数300万人以上を12球団で唯一[2]動員し続ける人気球団である(2010年まで。但し2008年は年間300万人割れ)[3]。前述のとおり保護地域は兵庫県のみだが、隣接する大阪府でも、大阪府を保護地域とするオリックス・バファローズを上回る人気を得ている。
1934年末に大日本東京野球倶楽部、球団名「東京ジャイアンツ」(現 読売ジャイアンツ)が設立した。東京ジャイアンツの親会社である読売新聞社は、数チームで職業野球リーグを結成したいと考えていた。特に東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していた。その誘いを受けた阪神電気鉄道が、当時日本最大の球場であった甲子園球場を本拠地とした球団を設立することとなった。
1935年10月22日の門前眞佐人との入団契約[4]を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさかタイガース)が発足した。
1936年にも、1月9日に川崎コロムビアの若林忠志、2月28日に立教大学の景浦將など有力選手と契約し、同年4月19日の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。2月5日には東京ジャイアンツ、名古屋軍、阪急軍、金鯱軍らと共に計7球団で日本職業野球連盟を結成している[1]。これは現在の日本野球機構の源流にあたる組織である。
1936年の公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分け、東京・大阪・名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式で行われた。最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場、鳴海球場、宝塚球場にて3大会が行われた[5]。巨人がアメリカ遠征を行っていて出場しておらず、金鯱軍も途中内外遠征を行っているため、シーズン通しての優勝は決定しなかった。
夏、秋各シーズンでは各大会1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏シーズンの名古屋大会で1位になった大阪タイガース[6]は、東京大会・大阪大会で1位になった名古屋軍、阪急軍と優勝決定戦を行うこととなっていたが直前に中止され、初優勝を逃した[要出典]。また親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋、大阪タイガースは24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と東京ジャイアンツと並んだ。しかし、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦で、1勝2敗と惜敗した[7]。
1937年秋、1938年春には御園生崇男に加えて37年春から西村幸生が加入したことにより安定した投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、プロ野球史上初の2シーズン連覇を達成した。さらにこの2年間は、春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定していたが、2年とも対戦相手となった東京ジャイアンツを破り、年間優勝二連覇を達成した[8][9]。このように、大阪タイガースは第二次世界大戦前〜戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。
1940年9月25日、日本の戦局悪化により日本野球連盟の方針で敵性語である英語の使用禁止を受け、大阪タイガースは球団名を阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志(当時37歳)が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた[10]。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。
戦後期(1946年 - 1959年) [編集]
第二次大戦後、日本のプロ野球は1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰。1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。
1947年、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番だった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「ミスタータイガース」と称された。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。
1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。さらに遊撃手・長谷川善三が西鉄クリッパースへ、門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。
セ・リーグ元年の1950年、阪神は若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。
一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる読売ジャイアンツが黄金時代の真っ直中にある中でタイガースは優勝から遠ざかることになった。
この間、松木監督は1954年限りで退任。球団は後任にプロでの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村監督の退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2ヶ月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。
1952年、フランチャイズ制度の正式導入に伴い、保護地域が兵庫県となった。
1959年6月25日の対巨人11回戦は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄の放った左翼ポール際の打球を本塁打と判定され、4-5で惜敗した。
2度のリーグ制覇(1960年代) [編集]
1961年4月1日に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更した。しかし成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した監督・金田正泰がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。
1962年、藤本の下、小山・村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分裂後では初となる通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦した。村山先発で2連勝した後、3戦目にも村山を無理にリリーフ登板させたが打ち込まれ引き分けに終わったことが響き、その後4連敗。結果4敗1分で敗退した。[11]
1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンだった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。
迷走から日本一へ(1970年 - 1985年) [編集]
1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一の黄金のバッテリー、吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、王貞治・長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えており、太刀打ちできなかった(1970年2位、1971年5位、1972年2位)。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退した。
1973年、金田が復帰して9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での中日ドラゴンズ戦では、先発・星野仙一を攻略できずに2-4で敗戦。甲子園での最終戦でも0-9と完敗して巨人の優勝を許した。1974年は田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。しかし、夏の長期ロードで大きく負け越して後退、最終的にはBクラスの4位でシーズンを終える。シーズン後に金田は退任。
1975年、吉田が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、江夏の不調などから3位に終わった。オフに江夏を江本孟紀・島野育夫らとのトレードで南海へ放出(江夏はのちに広島へ移籍)。1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣が好調で、ハル・ブリーデンやマイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍で巨人と激しく優勝争いを演じるが、結局2位に終わる。
1977年も序盤は好調だったが、対中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わる。後藤時代の1978年には、球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。オフに小津が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵・古沢憲司を西武ライオンズ・竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴、竹田和史との交換トレードで放出。さらに空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓とドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。
1979年、ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が古巣・対巨人戦8勝を含む22勝を挙げるが、8月下旬に南海から移籍した江夏を擁する広島東洋カープに離されて4位に終わる。
1980年、新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などでブレイザーが辞任。中西太、安藤統男が監督に就任したが、チーム成績は3-5位が続いた。
1985年、吉田が監督に復帰。1番・真弓、3番・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が活躍し、特に4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではクリーンナップトリオがバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。このシーズンは最終的に219本塁打を記録し、2004年に巨人に破られるまでセ・リーグ記録だった。特に阪神初の三冠王に輝いたバースは本塁打が54本と、巨人の王のシーズン最多本塁打記録に迫る活躍をしたが、シーズンの最終2戦で、記録保持者の王が監督として率いる巨人に敬遠攻めをされ、記録更新を阻まれた。翌日のスポーツ報知は、 “バース、記録達成失敗”との見出しで記事を載せ、「自分は敬遠するよう指示しなかった」という王監督のコメントも掲載された。ただ、元巨人のカムストック投手が、帰国後に米国のスポーツ誌のインタビューに解答したところによれば、試合前に巨人の全ピッチャーに「バースにストライクを1球投げるごとに罰金 100万円」という脅しが出ていたという。当時、巨人の親会社である読売新聞社には阪神ファンからの抗議が殺到した[注釈 2]。
夏場まで首位を快走していたが、8月12日に発生した日航機墜落事故で、当時の球団社長だった中埜肇が急逝するという不幸に見舞われた。訃報を受けた吉田はショックを受け、選手全員とユニホーム姿で霊前に優勝を誓った。このシーズンは、強力打線に加えて中西清起、福間納、山本和行らのリリーフ投手陣も大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)を接戦末に引き分けに持ち込み、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。11月2日には対西武戦(日本シリーズ第6戦、西武球場)で悲願の日本一を達成した。MVPとなったバースは、翌年も三冠王を獲得した。
第一次低迷期(1986年 - 1992年) [編集]
1986年、バースがシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークして大活躍したが、掛布と主軸投手・池田親興の負傷による長期戦線離脱、さらに岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。1987年は投手陣崩壊に加え、掛布・岡田の不振で最下位となり、吉田は監督を辞任した。この年の勝率.331は球団史上最低勝率である。
1988年、村山が監督に復帰。少年隊トリオと呼ばれた和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進めたが、バースの帰国、代わって入団したルパート・ジョーンズの故障、掛布の引退が重なって2年連続最下位。1989年は新外国人のセシル・フィルダーが活躍するも、三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。順位は5位で、辛うじて3年連続最下位は免れたが、シーズン中から浮上した監督問題で村山は辞任した。
1990年、中村勝広が監督に就任。前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調だったが、投手陣はエースのマット・キーオが怪我で退団、規定投球回に到達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという惨状で2年ぶりの最下位。1991年も開幕5連敗、6月に10連敗を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗と成績は振るわず、結局2年連続の最下位となった。後半戦は猪俣・葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めた。
1992年、衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、それまでほとんど実績が無かった亀山努、新庄剛志の両外野手に加え、和田・トーマス・オマリー・ジム・パチョレック・八木裕らが活躍。特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。甲子園のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、先発の中込伸・湯舟敏郎・野田浩司、中継ぎの弓長起浩、さらに抑えの田村勤ら投手陣も奮起してヤクルトと優勝争いを繰り広げ、巨人と同率ながら2位となった。
第二次低迷期(1993年 - 2002年) [編集]
1993年、外国人枠を巡ってパチョレックが退団、昨年絶好調だった投手陣も崩壊し4位に終わった。この年には野田と交換トレードで獲得した松永浩美が、FA宣言で福岡ダイエーホークスへ移籍した。1994年はFAで石嶺和彦を獲得。新人の藪恵壹、オリックス・ブルーウェーブから移籍の古溝克之が活躍してシーズン後半まで首位争いに加わったが、終盤の7連敗が響き2年連続の4位。同年オフ、長打力不足などを理由にオマリーを解雇した。球団創立60周年を迎えた1995年にはFAで山沖之彦を獲得。開幕から和田、石嶺といった日本人打者の不振もあって極度な成績低迷が続き、中村が監督を辞任。藤田平が監督代行で指揮を取るも球団ワースト記録となる84敗を喫し、4年ぶりの最下位に終わった。
1996年、藤田が正式に監督へ就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、チームは開幕から低迷。5月終了時点で借金15と早々にペナントレースから脱落し、最終的には2年連続最下位となった。新庄や主力選手との確執もあって、藤田は監督を辞任した。
1997年、吉田が3たび監督に就任。中盤まで上位を狙える位置にいたが、主力として期待していたマイク・グリーンウェルが突然退団・帰国し、新庄ら主力選手の不振も影響して失速、5位に終わった。オフに久慈照嘉、関川浩一とのトレードで中日・大豊泰昭、矢野輝弘を獲得。
1998年は、新人の坪井智哉が奮闘、更に同年5月26日に川尻哲郎が中日戦で矢野とのバッテリーでノーヒットノーランを達成したものの、アロンゾ・パウエル、大豊ら主力打者が不振。8月には球団ワーストとなる12連敗を喫するなど、2年ぶりの最下位となり、シーズン後に吉田は監督を辞任した。
1999年は、前ヤクルト監督の野村克也が監督に就任。更に西武から佐々木誠を獲得し、6月には一時首位に立ったが、先発投手陣の不振から徐々に失速、9月には2年連続で球団ワーストの12連敗を喫し、最下位に終わった。
2000年は、ヤクルトからカツノリを獲得する等の補強を行い、4月に9連勝して首位に立ち、5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛・西川慎一を、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンをそれぞれ獲得。吉田がいぶし銀の活躍を見せ、さらに新庄剛志が自己最高の28本塁打を放ったが、トニー・タラスコら外国人打者の期待外れや前年に続いて先発投手陣の不振が響き、結果は3年連続の最下位。オフに新庄がFAでニューヨーク・メッツに、大豊が中日に出戻り移籍した。また、選手の新旧交代も進み北川博敏・湯舟敏郎・山崎一玄を近鉄へトレードで放出し、佐々木誠・フランクリンらが退団した。
2001年は井川慶が防御率2位の活躍、濱中治と藤本敦士らの台頭、赤星憲広が盗塁王・新人王を獲得、更に交換トレードで谷中真二を西武、酒井弘樹を近鉄からそれぞれ獲得、更にはエドワード・ペレスとイバン・クルーズら外国人選手を獲得、中盤にはトム・エバンスを獲得して戦力補強も行うも、エバンス以外の外国人打者の期待外れ、井川慶以外の先発陣の不振、酒井が1軍未登板もあって、球団創設以来初となる4年連続最下位。シーズン後に吉田剛が引退し、酒井弘樹が退団し、塩谷和彦をトレードで放出するなど選手の新旧交代が進んだ。監督の野村はチームの柱となる選手の獲得を球団に要請するも金銭的な理由で断られ、12月5日、結局野村は、成績不振に加えて夫人・野村沙知代の脱税容疑での逮捕の責任を取るという事で会見し監督を辞任した。
2002年、前中日監督の星野仙一が監督に就任。オリックスからジョージ・アリアスを獲得し、FAで日本ハムファイターズから片岡篤史、交換トレードでオリックスブルーウェーブから斉藤秀光が加入、更にはデリック・ホワイトらの外国人選手を獲得。開幕7連勝と好スタートを切って首位争いに絡んだが、矢野・赤星がケガで離脱。吉本亮が矢野の代役を果たすも夏場以降は巨人に圧倒されて4位だった。しかし巨人との直接対決の試合で、マジック対象チームのヤクルトが横浜ベイスターズに敗れたため巨人の優勝が試合中に確定していたものの、劣勢だった試合を延長戦の末サヨナラ勝ちしたため、巨人側は「試合に負けて原辰徳監督を胴上げする」という珍事になった。星野はシーズン中にエバンスをトレードで西武へ放出し橋本武広を獲得、同オフには所属選手の解雇・放出を断行した一方、広島からFAで金本知憲、日本ハムから下柳剛、野口寿浩らをトレードで獲得。更に元ヤンキースの伊良部秀輝、そしてジェフ・ウィリアムスを加入させるなど人脈面での手腕を発揮した。
猛虎復活(2003年 -) [編集]
2003年は開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させ、9月15日に18年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズは福岡ダイエーホークスと戦い、第7戦までもつれ込んだが3勝4敗で敗れた。この対戦は互いにホームグラウンドで全勝したため、内弁慶シリーズと呼ばれた。また、この試合はテレビ東京系列で29年ぶりの日本シリーズ中継として放送された。シリーズ終了後、星野は健康問題を理由に監督を退任。星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一、達川光男、西本聖は退団した。さらに前年と同様、同オフに所属選手の解雇・放出も断行した。
2004年から岡田彰布が監督に就任。ドラフト自由枠で獲得した鳥谷敬を抜擢するなど戦力の増強を図ったものの、主力選手の不振と藤本・安藤優也・ウィリアムスのアテネ五輪出場による離脱、マイク・キンケードの期待はずれの不振、ジェロッド・リガンの負傷による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位だった。シーズン後、藪恵壹がFAでオークランド・アスレチックスへ移籍した。
2005年はウィリアムス・藤川球児・久保田智之のJFK、桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴など救援投手陣の活躍、さらにアンディ・シーツ、金本、今岡誠によるクリーンナップが安定した成績を残した。先発投手陣は井川、福原の不振もあってやや不調だったが、それを前述のJFKを筆頭とする強力中継ぎ陣で完全にカバーし、チーム防御率はリーグトップとなった。また、優勝を決定付ける本塁打を放った中村豊、5年連続盗塁王を獲得した赤星、意外性が持ち味のシェーン・スペンサーなどの活躍もあった。この年から導入された交流戦で好成績をあげて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなく5度目のリーグ優勝を飾った。この時、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝を獲得するという珍事もあった。日本シリーズでは、千葉ロッテマリーンズと対戦するも4連敗で日本一を逃す。
本拠地・阪神甲子園球場で応援するファンの様子(2005年)
2006年は最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝したものの、今岡の不振、久保田の負傷などが響いて2位となった。しかし、1985・1986 年以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団初の2年連続80勝を達成し、05年から実施された実数での観客動員数は2年連続で300万人を超え、1試合平均観客動員数は12球団一の4万3,000人だった。オフに井川がポスティングシステムでニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。
2007年は 4月から5月にかけて先発・打撃陣の不振で9連敗を喫し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷して借金は最大で9を抱えたが、リーグ戦再開後は少ない打点をJFKら中継ぎ陣が守る野球で、上位の巨人・中日と戦った7月の13戦を10勝3敗で切り抜け、この月を15勝6敗と大きく勝ち越す。8月の長期ロードも12勝8敗1分で2年ぶりに勝ち越し、シーズン終盤には10連勝して一時首位に立った。しかし、9月後半にJFKが失点を許す場面が目立ち、さらに先発・打撃陣ともに不振に陥って8連敗を喫するなど失速し、最終的には3位に終わった。クライマックスシリーズ第1ステージではリーグ2位の中日と対戦したが2連敗で敗退した。この年は、先発陣の完投が杉山直久、能見篤史、上園啓史による3回だけ(12球団最少)で、2003年のオリックス・バファローズ以来4年ぶりに、規定投球回数に到達した投手がいないという事態が起きた。さらに打率・得点も12球団中最下位だった。その一方で桜井広大、坂克彦、庄田隆弘、狩野恵輔ら若手選手が一定の活躍を見せたシーズンでもあった。
2008年はシーズン序盤から首位を独走し、5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成し、さらに7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジックを点灯させたが、主力の新井貴浩・矢野・藤川を北京オリンピック出場によって欠き、今岡、さらに藤川の代わりに抑えを務めていた久保田の不振、オリンピック後は新井の腰痛、前年から続く先発陣の弱さも重なって、中継ぎエースのJFK3人に過度に依存する試合運びとなり、猛烈な追い上げを見せた巨人に10月8日の直接対決最終戦で敗れ、巨人に優勝をさらわれる結果となった。13ゲーム差を逆転されての2位はセ・リーグワースト新記録[注釈 3]だった。リーグ優勝を逃した直後、岡田は責任を取るとして監督辞任の意向を表明。クライマックスシリーズ第1ステージではリーグ3位の中日と対戦するが、1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。岡田はクライマックスシリーズ後に正式に辞任し、真弓明信が後任に就いた。
2009年は4月は金本が絶好調だったものの、WBCに出場した岩田稔、正捕手の矢野、先発転向した久保田が故障で開幕に間に合わなかった。さらに新井・鳥谷の打撃不振や新外国人ケビン・メンチの成績不振もあって、巨人や中日に圧倒され前半戦は低迷した。6月にはクレイグ・ブラゼルを獲得。後半戦は新井・鳥谷の復調、能見・桜井の躍進、スコット・アッチソンや藤川などリリーフ陣の活躍もあり、8カード連続勝ち越しを決めるなど、東京ヤクルトスワローズと CS出場をかけた3位争いを演じる。特に後半戦は前半大きく負け越していた巨人との相性が良く、球団新記録となる5カード連続の勝ち越しなどもあり対戦成績を五分に戻し、優勝した巨人相手にセ・リーグ5チーム中で唯一負け越さなかった。しかし、最終戦でヤクルトに連敗、4位に終わる。この年はベストナイン、ゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしで、3つとも受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者も2000年以来9年ぶりにいないなど、特に野手陣の不振が目立ったシーズンだった。さらに12球団で唯一5連勝を経験できなかった。オフにシアトル・マリナーズに所属していた城島健司を獲得する一方で、9年間チームを支え続けた赤星がこの年限りで引退し、今岡、ウィリアムスらも退団した。また駐米スカウトのオマリーを外国人選手の不振の引責で解任し、シーツが後任として就任した。
ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。大阪の姉妹都市・デトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にして松原がこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。
このニックネームについては、英語表記「Tigers」の発音は「タイガーズ」のほうが近いが、正式名称は日本語の固有名詞であるため、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名は、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的だった[注釈 4]。
その後「タイガース」の名は戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中の英語が使えなかった時期を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球チームでは「セネタース」「イーグルス」などの愛称があったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているものは、2005年に復活した「イーグルス」(正式表記はゴールデンイーグルス)を除けば、「ジャイアンツ」と「タイガース」だけである。
球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が兵庫県が定める地域区分の一つ。同県南東部の神戸市と大阪府に挟まれた一帯を指す。俗に阪神間(はんしんかん)とも呼ばれる。尼崎市、西宮市、芦屋市、伊丹市、川西市、宝塚市、川辺郡猪名川町、三田市7市1町が含まれるの「阪神」地区に位置していることとの2つの意味をあわせもった球団名である。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にも阪急、南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、1961年に改称した。ただし、正式な改称以前にも「阪神タイガース」が通称として使われていた。[注釈 5]。
改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠とした事もあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。
球団名を一文字で表記する時は一般的に「神」とする。本来であれば略称「阪神」の一文字目「阪」の字を用いるが、かつて存在した阪急(現・オリックス)との混乱を避けるために阪神は「神」、阪急は「急」としていたものが現在でも続いている。
六甲颪 [編集]
詳細は「阪神タイガースの歌」を参照
球団歌は「阪神タイガースの歌」(旧:大阪タイガースの歌)である。歌詞の冒頭をとって六甲おろし(六甲颪、ろっこうおろし)と呼ばれる。
「阪神タイガースの歌」は球団結成と同時に「大阪タイガースの歌」として作られたもので、戦前から現在まで使われている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり球団が消滅するなどして、どれも現在は使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは歌詞中の大阪という単語を阪神に変えただけで現在も使われている。なお、歌詞中で連呼される感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大(おお)」と韻を合わせたものだが、球団名を改めた後もそのまま残っている。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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